木村克己の「サケのカイセキ」vol.4
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ー日本のBarにおけるバーテンダーの役割ー
バーカウンターのストゥールにお客が一人「どっこいしょ」と腰をおろす。
この人にはさほどの使命感はない。一方この客を迎え入れるバーテンダーはそれとは別にしゃんとした背筋がさらに伸びる。自分に自己暗示をかけ、これから起こる「仕事」に向かう為のパワーを頭脳とハートに充満させる。
お客の方はこのバーテンダーの士気を無言の内に感じとり、安心したかのようにバーの空気に馴染んでゆく。寿司屋とはまた違った静かな手合わせがここにある。
相手が常連であろうが一見であろうが、バーとはそうゆうものである。いきなりケーキを差し入れたり、握手を交わすのでもなく、名刺のやりとりも無用だ。考えて見れば不思議である。市営や私鉄のバスに乗り込む時とも違う。こちらも見ず知らずの運転士に体を預ける、そういう意味では同じはずなのに、なぜだろう。ここのところを解析したいのだ。
バーの客は実質的な利便を求めて来るのではない。でなければ酒など飲みはしない。客は酒と共に時間の流れを味わいながら、癒やしを受け、今日も生きていてよかったとの生の再生と覚醒を求め、
バーに『幸福な「場」の設営』を願ってやって来るのだ。これが鍵である。
だとすれば、これは全ての「芸能」に通じるものではなかろうか。芸能とはチャラチャチしたタレントの雑技ではない。よく出来た映画・演劇、音楽会やコンサート、ファッションショー、マジック。もっと言えば相撲、ボクシング、プロレス、サッカーの観戦も含まれる。内容のシリアスさは関係しない。私生活にも言及しない。では「芸能」の定義とは何であろうか。
それは、まず第一に見る側と見られる側の緊張関係があって初めて成立するものである事。
そうでなければ、ただアホらしいだけだ。
第二にそこで起こることは一過性であり、二度と再現できない。
又、やりなおしのきかない言動が断続しつつ、一つのストーリーを形成し完結している事。
一部例外はありうる。
第三に、見られる側は特別な訓練を積んでいるか、格別な技術、知力があるか、卓抜したプロ意識を持ちあわせている事。美形であることも一つの才能といえるだろう。
第四に上記にプラスして、何らかの装いが加わっている事。
関取のまげ、歌手の衣装、歌舞伎のくまどり、ボクサーの凄味、手品師のスマイル等々。これらをまとうことによって目的の効果を補強してゆく。ソムリエのコスチュームもこれに類する。
そして第五に非日常性を漂わせている事。これは舞台装置に依存する。
照明電飾、その逆の暗闇、音響、大道具小道具、匂い香り、装花、建築物、そして仮にでっちあげであっても歴史性を想起させる「しつらえ」が挙げられる。
最後に、強烈な感動や官能をゆさぶった上で、また見たい、また来たいと思わせる、ある種の誘癖性や惑乱性を隠しもっている事である。
このように考えてみるとバーという場におけるバーテンダーのありようが、一側面として、と断りを入れた上で、見えてくるのではないだろうか。常に酒が主役ではないのである。私は芸人でないと行っても、カウンターの中はバーマンの光り輝く舞台であり、客はそのエンタテナーの技能と話芸を大いに期待している観客である、とした方が、全てまるくおさまる解釈となりうるのである。
(本章は熊倉功大著「茶の湯の文化史」一NHK人間大学テキストーを参考とさせていただきました)
日本ソムリエスクール東京校長木村克己